こんにちは、京子です

さて本日は聖徳太子が関わったとされる七大寺の一つである


広隆寺の門

広隆寺(こうりゅうじ)

京子が広隆寺に来た最大の目的は

うふふそうです

小学校、中学校、高校と、どの教科書にも必ずのっている

国宝第一号の○○を生で見たーい

ってなワケなのです


広隆寺の石碑

南大門(正門)の隣にデカデカと聖徳太子の文字が


入ると、境内はとにかく広くて優雅

広隆寺の石畳

お庭の手入れをされている方もチラホラ見かけ景観も最高です。

まずは南大門をくぐると見えてきたのが


広隆寺の講堂

講堂!もちろん国宝です

この広隆寺、紅葉の季節がオススメだよっと言われたのですが


それもそのはず!沢山のカエデが建物に彩りを添えています~

講堂の中を覗いてみると・・・阿弥陀如来坐像などが祀られていました

もちろん撮影禁止なのでお見せできないのが残念ですが

広隆寺の説明石

聖徳太子から仏像を授かった秦氏(渡来系氏族)が仏像をもらい、蜂岡寺(広隆寺の古称)を造ったと書かれています。


さて、広隆寺の建立者である聖徳太子

お札にもなっている人ですから皆さんご存知かと思います。

でも、謎が多い人物で、歴史も古いので詳細に伝える文献も少ないのです


出生に関しても多くの説があるようで

聖徳太子と名乗る前は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言われていました。

この厩戸(うまやど)というのは実は、「馬小屋」という意味なんです


それを踏まえた上で

聖徳太子(厩戸皇子)の出世に関しての2つの説

まずは、よく言われている説として


「①聖徳太子は馬小屋で生まれたから厩戸皇子になった。」

「②キリストが生まれた場所が馬小屋であったのでそれに習って名付けた」


これなんですが

…皇室の子供がまさか、馬小屋で生まれたの!?


なんていう事はやっぱりなかなか考えにくいので京子は②の説ではないのかな~と思います。


聖徳太子は、仏教の他にもいろいろな宗教の考え方を柔軟に取り入れた人であったようです。


1549年のキリスト教伝来よりも前にキリスト教の教えは景教(中国における古代キリスト教の教派)を通じ日本に入ってきていたのではないかと言われています。


この事から、景教は聖徳太子の出生の秘密になんらかの関わりがあるとされているんです。


中国でこの当時、景教は盛んな宗教であり、日本にも公式ではないですが入ってきていた可能性は高いと思います。


つまり、厩戸皇子という名前に関して

馬小屋で生まれたというよりも、キリスト教、つまり景教を通じてキリストの存在を知っていたのでは!?キリストにあやかって付けた名前という説の方が京子は自然のような気がします


うーん、奥が深いよ、聖徳太子。


さて

広隆寺に話を戻すと、その聖徳太子像が祀られている本堂が

見えてきました♪

そうです


広隆寺の上宮王院太子殿(じょうぐうおういんたいしでん)

上宮王院太子殿(じょうぐうおういんたいしでん)

よーし見るぞー!っと思って中を覗き込んだのですが・・・


( ´Д`)聖徳太子像は非公開でした(泣)

※後から調べると毎年11月22日の「御火焚祭」のみ公開されるそうです


広隆寺の額

上には様々な額が!明治時代のもなどがありました


そして、いよいよ例のアレ・・・

国宝第一号の○○を見に奥へ奥へと足を運びます。


広隆寺のちいさな池

ちいさな池も境内にはあります、これを見るだけで少し涼しくなっちゃいました


ところで、聖徳太子は天皇に即位する事なくその生涯を閉じました。

役職は日本で初めての「摂政(せっしょう)」なんです。


ちなみに、摂政って何??・・・

「摂政」とは、天皇が女性の時、天皇が病気の時、天皇が子供の時に天皇に代わって政治を取り仕切る役職です。この時の天皇は日本で初めての女帝「推古天皇」で、推古天皇に代わり、主な政治を取り仕切っていたのが聖徳太子だったんですね~。


摂政である彼は所持していた剣からもその役職が受け取れます。

その名も「七星剣(しちせいけん)」

なんと北斗七星が刻まれているのですが

これは道教(漢民族の伝統的な宗教)からの思想に基づいた考え方で

天皇を不動の「北極星」として(北辰と言われていていました)

「自分(聖徳太子)は北極星に最も近い北斗七星だ!」

という考えの下、その剣に北斗七星を刻んだと言われています。


593年に、その摂政となった聖徳太子ですけど

それから10年間はほとんど文献が残されていなくって

一説には政治の勉強していたなんて言われています。

そして10年後、突如打ち出した政策がコレ!


603年 冠位十二階

それまでの貴族やそれを取り囲む人、一族含め、すべて氏によって仕事が来まっていたんですよね。

ようは、代々受け継がれるのが決まりで、職業選択の自由もなにもなく

パパが大臣なら、子も大臣!そんな時代に出された新しい制度がこの「冠位十二階」でした。


これにより、広く人材を登用し

祖先代々受け継ぐ役職から、個人に併せて「位」を設けるという新しい考え方です。

当時ではかなりリベラルですよね~


この制度により、遣隋使で派遣された小野妹子なんて、とーっても大出世をしたようです。


逆に、この制度に反発したのが蘇我氏と言われ、位を受けてしまうと朝廷の傘下に収まる事を嫌いこれを拒否しちゃいました

蘇我氏だけは長らく権力を握り固執し、その座に居座り続けましたが…結局、乙巳の変によって滅ぼされたのです


もうひとつ!聖徳太子は翌年にもまたまたスゴイ心得を作っちゃいます


604年 憲法十七条

その名のとおり、17条からなる条文ですが、大事な事は大きく3つ!

まずひとつ目!

「和」を大切にしなさい。

これは喧嘩をせず、上の人間も下の人間も協調・親睦の心を持ちなさい。というものです。

仲間意識・協調性ですね


そして、ふたつ目!

三宝、つまり仏教を信奉しましょう。

それは人間の最後の拠り所なのです。そうあるべきなのだという事なのです。

仏教の信奉ですね


そして、最後!

王、つまり天皇の命令に従いなさい。

そうでなけれは国は自滅しますと、いう事です。天皇を敬いなさいという事ですね。


聖徳太子が願った「争いを無くし平和を願う」こころ

現在にも伝わり、東京の最高裁判所には

聖徳太子が憲法十七条を制定する場面が描かれた絵が飾られています。

憲法という言葉も「憲法十七条」からとられています。


広隆寺の弁天社

池の辺にある弁天社。風情があります


そして、いよいよです。

ここ、広隆寺で京子が冒頭から口をすっぱくして言っていた

小学校、中学校、高校と、どの教科書にも必ずのっている、国宝第一号の○○!

そうです、それが祀られているのが

広隆寺の霊宝殿

こちらの、霊宝殿!

霊宝殿には、数々の国宝、重要文化財の立像、坐像が眠っています。

その数・・・数十体!


その中でも、霊宝殿の中心に祀られているのがコチラ

国宝第一号

弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかしいぞう)!


製作されたのはなななんと!

6世紀から7世紀といわれ当初は漆で金箔を貼り付けた漆箔像であったようです。

アルカイックスマイルと世界で絶賛されました!


もちろん、館内撮影禁止だったので

このお姿を生で見られるなんて、京子鳥肌ものでした


他にも、沢山の立像、坐像があり、若かりし頃の聖徳太子のお姿も

見る事が出来ました。


こんなすごい聖徳太子は

最後の最後にまたまたスゴイ事を言っちゃいます。

それは・・・・なんと!

聖徳太子が亡くなる前日


「明日死ぬ」と言い残し、

奥さんと最後に一緒に眠りにつきました。

翌日・・・


奥様と共に冷たくなっていたそうです。


死因は謎に包まれていて

そもそも聖徳太子は存在しない!?なんて説。

そして、自殺!?もしかして他殺!?だったりといろいろです。


でも実際はどうだったんでしょうか

どなたかお詳しい方がいらっしゃいましたら是非、京子に教えて下さいませ~


そんな広隆寺の場所はコチラ↓


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